「国立西洋美術館パレスチナ反戦アート警察出動」と「キリン「高齢者は集団自決」成田悠輔氏起用取り下げ」の話の違い

①国立西洋美術館パレスチナ人虐殺反対アートに警察出動
②キリン「高齢者は集団自決」成田悠輔氏起用の「氷結」広告を取り下げ

①公権力による上から下への自由侵害の危うさ。
②それを容認するような人物を起用した民間企業に対する私権による下から上。
このベクトルをちゃんと区別するのが大切。

ベクトルを勘違いするな

あまり頭の良くない人だと、
①「過激なアートは警察に規制されて当然」
②「高齢者は集団自決しろ程度の発言で広告を取り下げられるのはおかしい」

「過激アートへの自由規制に賛同するのに、人権侵害の過激発言はする」
「自分の自己矛盾に無自覚」だろうので先に釘を刺しておく。

「自分は国家権力側で弱者差別したい」卑しい思い

やはり
①国立西洋美術館の過激な反戦アートは警察に規制されるべき
②成田悠輔の「高齢者は集団自決しろ」は正しい、過激を理由に取り消しはおかしい
を同時に言って自己矛盾している人が続出。
①が成り立つなら②は成り立たないから。

「自分は国家権力側で弱者差別したい」卑しい思いからこうなる

確かに②も「表現の自由だ」と①と同じ理屈で開き直ったほうがまだ味方がいたろうに。

そもそも「高齢者は集団自決しろ」が弱者への人権侵害を含むのと、
自分が権威主義者で国家体制側で弱者を見下せると勘違いしてそうな故に、庶民サイドの発想が出てこない。

フォローしようとした支持者が友釣りの同じ穴の狢に落ちる

松本人志の時と同様に成田悠輔も、なまじ今までの支持者がフォローしようとしてしまい「え?あなたも集団自決に賛成なんですか?」と友釣りされて同じ穴のムジナに落ちる。
祭りの花火だけ焚き付けて打ち上げたらみんな俺知らねーと去る。

ベクトルをせめて上へ向けてればフォローされたものを。

「私」→「公」への批判や指摘は三権分立の世論としてセーフだが、

「公」(あるいはそれに準ずる)→「私」への、上から下への批判のベクトルは擁護できないほど憲法違反かつ人権侵害になる。

山本太郎議員の疑問提示の仕方がうまい。人権侵害の発言をする人物の発言ではなく、それを「公的に起用したこと」に向けている。

上の公的批判へ向けるべきことを下へ向けてはいけない

診療報酬や高額療養費削減で医療者や患者が苦しんでる時に高齢者をディスったり

失業で女性や子どもや障がい者の生活保護が増えてる時に生活保護者をディスったり

本来は下から上のベクトルで合法的に公人をディスるすべきなのに
上から下へ弱者ディスりの人権侵害。

これをやると裸族のお立ち台で袋叩きになる。

診療報酬と高額療養費削減で、医療者や高齢者もやむを得ず貧困してる時に「高齢者は集団自決せよ」や
コロナ不景気で失業から女性や子どもまで生活保護がやむを得ず増えてる時に「生活保護の人が生きてても僕は別に得しない」等。

炎上の注目承認欲求目的でもリスクとデメリット計算できない人の時点でアレなのだ。

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