介護生活では「〇〇が壊れた」と呼び出される。電気のスイッチが壊れた、トイレが流れなくなった…。
物が壊れているのではなく、本人の身体ができなくなったのを「物のせい」のクレームにします。
気を引く手段としてクレームを知人や親戚まで拡大していきます。
負担減のため家電製品の自動化は必須なのです。
負担減のため家電製品の自動化は必須
私は電気一つでも壊れれば実家が不幸だ不幸だと嘆き出すので、事前にLEDにして切れない、壊れないようにします。
また難病のパーキンソン病の父の「やにこ」の行為に振り回されることが事前にわかっているからです。
私「トイレが詰まったので工事業者を呼ぼう」
→父「それはダメだ。昔、俺が住んでいた家の近くにスッポンの得意なおじさんがいた、その人に頼めばいい(30年前に死亡)、孫がどこかにいるから電話をかけて身元を調べて呼び出そう。」
私「ギフトのためにお酒をネットで買う」
→父「それはダメだ。昔、俺が住んでいた家の近くの酒屋(30年以上前に閉店)の孫がいるはずだから、その孫を探偵を使って探し出して、電話をかけて、もう一度店を開いて売ってもらおう。」
私はいつも「そのやり方で何十年かかるか知りませんが、やりたければ一人で勝手にやってください。私はネットを使って明日のうちに解決します」と返しています。
とにかく「今のやり方」を否定して「俺の昔の頃」の「過去」やり方を戻して、手間も労力も時間も費用も悪く、不確定要素が多すぎて回りくどい方法に戻そうとする。
解決法が「過去」に戻すことになってしまう
解決法が「過去」に戻すことになってしまう。
これが論文の通りパーキンソン病から来る「過去からの時間の連続性」なのかも知れません。
多くの人は何十年単位で思い出を振り返ると気分の浮き沈みの波を感じますが、パーキンソン病はそれがなく時間は過去停止のまま平坦に感じる。
結果「周りの人間も過去のまま止まっている」と思い込む。
私は「過去崇拝教」と呼んでいますが、この時間感覚が、パーキンソン病の父に対する「違和感」な気がします。
「昔は良かったなぁ、今は変わったなあ」なら分かるのですが、「今も昔だ」になっているのです。
例えがアレですが、「昔はバンカラ学生帽」「昔はブルマ」だから、今の学生にバンカラ学生帽やブルマを配布して「昔に戻れー戻れー今もこれなんだー」とやってしまうような気持ち悪さなのです。
実家でトイレというインフラが詰まった際に、さっさとネットで調べて水道局指定業者に電話すればいいのに、
「40年前…地元でも有名なスッポンおじさんがいた…あの人なら…!」と、
もう生きているかも分からない過去の選択肢から消去法で引き出そうとするのに親の脳の保守性を感じてしまうのです。