成功は最初から決められているのでしょうか?
「どうやったら大手になれるだろうか?」「人気になれるだろうか?」と話していた時に奇妙な会話に遭遇して話が噛み合わなくなったことはありませんか?
例えば、
「大手企業は正しいけど、新規のベンチャー企業は正しくない」
「人気のアイドルは正しいけれど、新人のアイドルは正しくない」
という話を展開する人がいます。
結論から言うと、こういう人は「キリスト教の予定説の信奉者」か「努力を放棄」しています。
日本人で前者である可能性は低いですが、
「努力を認めない」という根底には「自分への自信の無さ」があります。
「行動の結果」だけを見ているから話が噛み合わないのです。
「行動だけ見て動機を見ない」
この世界観は神経症者によく見られます。
行動の結果しか見えない病理
人気のアイドルも新人時代はあったはずです。
しかし、今の人気の時代のみを切り取ってその「行動の結果」しか見ていないので「人気者は正しいが、新人は正しくない」と、おかしなことになるのです。
大手企業も、最初は新規のベンチャー企業だったはずです。
例えば「マクドナルドのハンバーガーとコーラは世界中で一番売れているから、一番美味しいに決まっている。」という論理を展開する人がいます。
これはもうめちゃくちゃです。
売れている商品は他にもあります。加えて美味しいかどうかは個々に基準があるので一番かどうかも不明です。
論理破綻しているのですが、マクドナルド=大手企業=正しい、という権威への信仰が謎の論理を作り出してしまっているのです。
「結果」のみを「必然」とするのはキリスト教の宗教的教え
これは本来キリスト教の「予定説」と言う宗教的な教えに近いです。
「すべて最初から神様が決めている」という教えです。
成功する人は生まれたときから成功が決められていた。
失敗する人は生まれたときから失敗することが決められていた。
というものです。
起こった結果に対して、「神様が最初から決めていたんだよ」と他人のせいに棚上げして信者を懐柔する方便として使われています。
では「結果のみ見る」権威主義者な彼・彼女らが予定説を信奉するほど敬虔なクリスチャンかといえば、そうではありません。
むしろ真逆で無神論的な人の方が多いのです。
それどころか破滅的な思考を持っています。
仮に自分でなんとか努力しようとしていたとしても、
「人気になるためには努力せねば」「大物になるためには頑張らねば」と言いながら、
「人気になる人は最初から決められていた」「大物になる人は最初から決められていた」
と「結果だけ見た」矛盾した考えを持つから葛藤が起こるのです。
理想像がないと社会を父親にして権威主義者になる
神経症者は自分の「鏡(何でも共感してくれる人)」も「理想(社会性を示してくれる人)」の存在が、どちらかあるいは両者とも欠落しているので、
「社会」を見た時に「大多数に認められているものは正しい」という論理になってしまいます。
自己に理想像がないので、社会に対して理想を描いて、それが正しいことだと絶対的な父親のように基準やルールにコミットします。
行き過ぎると「権威主義者」のようになります。
しかし往々にしてそれに裏切られ、思い通りに行かずに失敗に終わってしまうのです。