二分法病理の心理学と構造主義

心理学・精神医学

%e3%83%aa%e3%83%99%e3%83%a9%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e6%95%99%e8%82%b2

サルの「不公平実験」と占拠運動
https://boingboing.net/2012/10/08/monkey-gets-upset-about-receiv.html

分かりやすすぎて笑いました。
ぶどうを与えていた猿に、急にキュウリにすり替えたら怒り出したという実験です。

行動主義(刺激と反応だけ)に対する反例としての「期待学習」の発見は、すでに1928年にティンクルポーの猿の期待報酬実験(報酬にバナナを学習させ、途中でバナナをレタスに置き換えたら猿がキレた)で観察済みでした。
しかし1960年の認知ルネサンスにおいて注目されるまで無視され続けたのです。

前回の記事でも書きましたが、

なぜ体罰が悪影響だと断言できるか?歴史と研究
https://libpsy.com/taibashu-history-research/4187/

行動主義の「入力→出力」の時代から、認知主義の「入力→内的処理(内部関数)→出力」という時代変革が科学的にあったのです。

私が気になるのは、それを知ってか知らずか(間違いなく知らない)、
なぜか日本は1920~1950年頃の古すぎる行動主義の信奉者が多いのです。

「そんなバ力な!刺激と反応だけだから、報酬をブドウからキュウリに変えても怒るはずがない!同じ反応が起こるんだ!」
・・と。

100年以上前から発展してないのか、教育劣化させる目的で意図的に100年以上前に戻そうとしてるのか。
日本で中国道教の「有vs無」の世界観が、結果的に中国共産党の唯物論みたいになってるのです。

全ては科学!科学こそ絶対!目に見えるモノが全て!という人がいたら「共産主義者ですか?アカですか?」と聞くこと。

やはり世界学問基準である「リベラル・アーツ」が学問の土台(基礎教養)から抜けてしまってるせいで、理数系vs文科系というありもしない(明らかに道教・中国共産党の「有vs無」の唯物論の宗教的世界観)分け方をしてしまってるので、本来の学問相互の枠を超えたダイナミズムに気付けないのです。

個人的にそういう唯物論の強い人がいると
「ごめん。俺、共産思想(マルキシズム)には共感できないわ。」
「え?もしかして中国共産党員ですか?」
と返すようにしている。本人は無自覚にそうなってるので、質問し返してあげないと本人も気付けないのです。

二分法思考の精神病理

他者軽視において特に相関が高いのは仮想的有能感(実経験の伴わない妄想の有能感)と二分法思考。

特に精神病圏・人格障害圏が必ずする「二分法思考」(白か黒か、有か無か、善か悪かの決めつけ)において「誤った二分法(false dichotomy)」が入り込んでいることに気付けない。

二分法思考の排中律(=単調論理:白か黒か、善か悪か、賛成か反対かなど。中間の意見は一切排除。例外も認められない)を崩すには、%(パーセント)の比率で示したり、例外(特称命題)を入れる非単調論理。本来はこれが近代科学(自然科学・社会科学)の基礎。

そもそも近代科学(自然科学・社会科学)は、中世の神が絶対真理の排中律(単調論理:有か無か、善か悪か等の二分法)に対する、非単調論理(パーセント、例外も認める、全称命題に対する特称命題、不完全帰納法)。

なのに科学的で唯物論です、などと、また単調論理の宗教に戻してしまってる日本。

例えば、プログラムのオブジェクト指向言語でスーパークラスである上位概念は何ですか、と言われたら定義できないといけない。
学問においてもそれは同じ。
しかし日本は単調論理の枠内で、しかもそれが理数系vs文科系のように「誤った二分法」では無理。

自然科学・社会科学と言えば正しい。

そうすればリベラル・アーツの土台の上で、神学・法学・医学の準備過程である下位の「哲学部」の下の自然科学&社会科学(近代学問)は属する。上位概念は「哲学」と分かる。だから理科系であっても博士は「Ph.D」(哲学博士)と呼ぶのだと。

そして理数系=自然科学ではない。「理科のみ」が自然科学。
数学は自然科学・社会科学の上位の、更に上位学問である「神学」。「哲学」の下位の自然科学・社会科学において、あくまで数学はツール(道具)でしかない。

構造的に学問理解しないで、理数系なんて誤った二分法をするから論理矛盾する。

例えば、ピーマンやニンジンの上位概念は「野菜」と定義されるが、野菜=ピーマンのみ、と定義してるのと同じ。偽(ぎ)である。上位学問の神学(数学)と、哲学の下位学問の理科(自然科学)はイコールではない。

詳しくは私の過去の記事へ↓

リベラルアーツまとめ~正しい学問体系を知ろう~
https://libpsy.com/liberalarts/4109/

私たちは科学のなかからしか真理をうかがうことはできないの図

科学的見方

参考文献:戸田山和久「科学的思考」のレッスン―学校で教えてくれないサイエンス (NHK出版新書) https://t.co/nmfJEjSV

「他人を見下す若者」の増加と、家庭教育でできること -子どもの自尊感情を高める働きかけが求められている-(ベネッセ教育研究開発センター)
https://t.co/HMwDmTHF

自然科学(人が作ったものでないもの:神が創造したのを人が研究する学問)と、
社会科学(人間が作ったもの:人間が集団で作ったものを研究する学問)。

双方とも数学は道具として使うが、本来の神学のように数学=(神様の)真理の証明ではない。

あくまで下位の自然科学と社会科学は「仮説」。

理科学である、自然科学(生物学、化学、物理学、量子力学etc)も、社会科学(経済学、政治学、社会学etc)も、それぞれの抽象度の大きい分野から、小さく細切れにされている。原子(アトム)の語源と同じように「どんどん切り分けていく」と同じこと。

このように学問はリベラル・アーツを通じて構造的に繋がっているのだが、その世界的事実は日本は知らず、学問の全ては横並びで「何の関係もしていない」と思い込まされている。立体感すらない。分析哲学や認知ルネサンスのムーブメントすらまだ来てもいないし、理解もされていないもどかしさ。

だから理数系と文科系の上位概念は何?と聞いても答えれない。その分け方の前提から明確に論理矛盾してるから。
野菜=ピーマンのみとされてしまっているので、ニンジンとピーマンとの上位概念は何?と言われて、ニンジンが野菜のカテゴリに属さない。最初から論理が矛盾してしまっている。

この(誤った)単調論理(二分法思考)に、主観的な善悪や上下関係まで負荷しておかしくなってる。

野菜はピーマンのみだから、ピーマンは善。
ニンジンは悪である。
という謎の世界観である。

心理学においても社会科学の方法論(多くは統計)を使う。

群をどんどん細かく切り分けていく。仮想的有能感(他者軽視)、精神病と相関の高い二分法思考の研究していて、余計にその確率的な方法論の限界と、日本人ならではの「有vs無」の中国道教フィルターによる誤った学問二分法に気付かされる。

例えば、サブプライムローンなんてもっとひどくて、外れ値も何も、あり得ない正規分布で平均を階級別に切って証券化して、(当たり前だが)返済できなくて破綻した。官僚が大好きな「偏差値」も同じようなもの。

偏差値は50が真ん中ではない。

そもそも平均値(点)はそこに人が集まってるわけではない。

統計学の基礎を学ぶだけでも、いかに偏差値や平均点が子どもを競わせるための詐欺な数字か分かる。

最近はサブプライム・ローンで、この数字のカラクリの大嘘が実証的に示された。得点-平均点) ÷標準偏差× 10+50です。簡単に言うと平均点から自分がどれだけ離れていたかを数値化したのですが、平均点というの自体が正規分布(散らばりなく平均に集まっていること)が前提なので、まずその前提からあり得えないのです。

偏差値の誤解と迷信
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%8A%9B%E5%81%8F%E5%B7%AE%E5%80%A4#.E8.AA.A4.E8.A7.A3.E3.81.A8.E8.BF.B7.E4.BF.A1

本来の「中道」とはなにか ~中観や平衡との違い~
https://t.co/hBkZQK3n

科学は捨象(外れ値を捨てる)ことでモデルを作る


科学は捨象(外れ値を捨てる)ことでモデルを作る。

だから、論文の最初からに定(さだ)まった限界「定限(定義の語源)」を決める。

医学では、薬や療法の効果を見る場合、母集団から抽出れたサンプル(標本)から、統計的推定を行う。そこに信頼区間を区切る。個別でなく多くの人に同じ効果がないといけないから。あとは有意性検定で観察者が「判断」(証明ではない)するだけなので、必ず誰もが薬で同じ効果が出るとは限らない。

近代科学(自然科学・社会科学)は、こうして神学とは正反対に位置している。
統計で外れ値(特称命題)を捨象してモデルにするので、神学(数学)のような全てを包括する全称命題(完全帰納法)ではなく、不完全帰納法が前提となる。

これは世界価値のリベラル・アーツの学問体系でないと気付けない。

医学(自然科学)等でお馴染みの統計的信頼区間推定も、経済学(社会科学)等の偏微分関数で二回微分しての成長率や増加率も、確率の世界で平均や標準偏差をみて外れ値は捨象(無視)しているのだ。

捨象するから客観的なモデルとなる。だから数学のように絶対答えがそうなるとは限らない。占いと呪い。

自己愛と二分法思考の相関図

合理判断(平衡)とは程遠いところにある仮想的な有能感(感情、他者軽視、無意識)であるが、合理的すぎたとしても強欲と拝金になるので、合理判断(現実検討能力)とは遠ざかる。

卒論で実験したところ、彼らは「運」という根拠のないものまで自信があった。イメージモデルとしてピラミッドではない。

これはおそらく(ほぼ間違いなく)だが感情で動く仮想的有能感(二分法思考、他者軽視、矛盾)の人は、自分の二分法思考を意識していない。無意識(感情)だから。意識した瞬間に意識してないことになる。

心理学と構造主義

極端に言うと、「お金(近代科学)か愛か」というユダヤ教vsキリスト教のような対立構造に、
意識(構造)と無意識(構造上の疎外)、
認知(合理)と感情、
自己効力感と仮想的有能感(二分法思考・矛盾)、
の話に帰結していく。

つまりこの対立を更に上で包摂した合理的選択が必要ということ。

意識的(合理)な認知に、普通の有能感、つまり自己効力感がある。

無意識的な感情に、仮想的有能感がある。

感情が二分法思考と高く相関するのは、感情自体が上で認知(包摂)されずに、情報量(知識とは異なる)が多すぎて整理できず「矛盾」が生まれるから。

%e8%a5%bf%e6%b4%8b%e5%93%b2%e5%ad%a6%e3%81%a8%e6%9d%b1%e6%b4%8b%e5%93%b2%e5%ad%a6%e3%81%ae%e7%b5%b1%e5%90%88%e5%9b%b3

「認知」とは、合理的な構造主義、意識できるゲシュタルトである。

対して「感情」とは、意識できない無意識の部分である(フロイトの言うところの動物的本能、エス)。

感情は非合理に突き動かされ、認知はそれを判断することで、下の構造を包摂し、認知(ゲシュタルト、抽象度)を高める。

合理とは近代に認知という言葉でも派生した。

認知とはゲシュタルトのこと(物神化、無意識という見方、市場の疎外という見方も同じく構造主義なものだ)。

やはり小室直樹氏の言った通り、日本人がユダヤ教の合理主義を知るには遠すぎる。

まだキリスト教の、愛の思想のある、二枚舌のカトリックから、合理の入り込んだプロテスタントにかけての合理主義を学ぶ方が取っ付き易い。あまりに儒教と道教に毒されているので、徹底的に合理選択論を学ぶ必要がある。

タイトルとURLをコピーしました