私の先生が昔「すべてが洒落臭くなるのがカウンセリング」だと言っていました。
洒落臭い(しゃらくさい)とは「分に似合わず、気の利いた風をする。生意気である。」 という意味です。
「心理学者でカウンセラーのあんたがそんなこと言うなんて不謹慎だ!」と思うかもしれませんが、今となっては私は指導教授が言っていた言葉の意味も分かります。
一体どういう意味なのでしょうか?
カウンセリングの基礎の3つ
カウンセリング場面では、カール・ロジャースの来談者中心療法(クライエント中心療法)が基本となります。
来談者中心療法とは「受容・共感・自己一致」の3つが柱。
「共感的理解」、「無条件の肯定的関心」、「自己一致」は基礎中の基礎です。
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カウンセラーなんて必要ないと言える人は健常~カウンセリングの矛盾~
しかし洒落臭くなる
私の先生によれば、これを繰り返しているうちに「しゃらくさくなる(洒落臭くなる)」のです。
面倒くさいわけではないのですが、わざわざ遠回しに気を利かせていくことが手間に感じてくるのです。
具体的には、カウンセラー側は「本当はそう思ってはいないのだけど、遠回しに相手に悟らせなくてはいけない」ので傾聴を続けていくのです。
例えば、「何でも良いからぶち壊したい」という発言が合った場合、「それは止めなさい」なんてことは言いません。
今まで抑圧していて我慢していたのにその発言が出たからこそ、その気持ちを受容して共感することが大切です。
なので「どうしてそう感じたのか?」と疑問を投げかけながら、本人の気持ちの中核を探っていきます。
多くは幼少期の出来事までさかのぼるので、そこで本人に「お父さんがあなたに厳しくあたった気持ちを破裂させたいんだね」とフィードバックさせます。
多くがこの繰り返しです。
しかし何度も遠回しに話をしていくと、何度も同じパターンの話がループしたり、一度焼けた話を何度も両面焼きされたりして、
「またその話か・・」「またか・・」と疲れてくるのです。
この気持ちが「洒落臭くなる」「気遣いが面倒くさくなる」のです。
「しゃらくさい」を乗り越えた先に
多くの人はこの「しゃらくさい」作業の煩雑さと面倒臭さでカウンセラーを辞めていきます。
そういう人は興味があるのは啓発したり説教したりする自分自身であって、そこまで相手に興味がないからです。
事前にこのように「しゃらくさい」作業であると知っていれば、そういうものだと理解することができます。
カウンセリングの「しゃらくさい作業」は、
本人の心理的侵襲が少ないように周りの糸を紡いで、少しずつ小出しにする感じです。
まどろっこしくて、しゃらくさいのですが、そう感じれるのは健康的な人です。
逆に精神病態水準の人に対して、まともに「これがあなたの問題ですね!」と目の前に出すと怒りや見下しの心理抵抗が必ずあります。
それはそれでショック療法みたいに効果あることもありますが、かなり限定的です。
なので基本的にはしません。
カウンセラーなんて必要ないと言える人が健常
それでいて、前記事でも書いた通り
「カウンセラーなんて必要ないと言える人が健常」なのです。
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カウンセラーなんて必要ないと言える人は健常~カウンセリングの矛盾~
例えば、病気になって医師や看護師に「〇〇先生のおかげで病気が治りました!ありがとうございます!」とわざわざ言いに言った人がどれだけいるでしょうか?
多くは「これで治療終了です!」なんてことはなくて、「病気は回復傾向にありますが、お薬を飲みながら経過観察を続けましょう。」が、最後になります。
逆に病気でもないのに医者がいても、自分の健康は空気を吸うのと同じくらい「当たり前」なので医者がいても邪魔なだけです。
カウンセラーも心理的に病んでいるときでないと、ありがたさが分かりません。
なので評価されにくいのです。
白紙であることが求められるカウンセラー
カウンセラーでも技量が分かれて個性があります。
神経症などの精神病態水準が軽度であれば、自意識の強いマイルドヤンキー的なカウンセラーでも良いかもしれません。
しかしそれ以上の人格障害や精神病圏であれば、絶対にマイルドヤンキーカウンセラーでは駄目です。
カウンセラー側も半分、統合失調症のような性格であることが求められます。
私はそれを「白紙」(タブラ・ラサ)と呼んでいます。
優れた役者は自分を白紙にして、それに原作の役柄を描くことができます。
カウンセラーも同じで自分を白紙にして、クライエントに絵を描かせなくてはいけません。
「しゃらくさい」と感じた時点で、自分も「なぜしゃらくさいと感じたのか」を自問自答して洞察できる人が優れた人なのです。