岐阜県の「富加町の幽霊マンション」が映画化していたようだ。

『N号棟』(エヌごうとう)は、2022年4月29日に公開された日本映画。2000年に岐阜県で実際に起きた幽霊団地騒動をもとに新解釈で映像化した考察型恐怖体験ホラー作品。
N号棟

霊能者の下ヨシ子氏がポルトガル宣教師の地縛霊をおさめたことで話題になったのを覚えている。

また2000年の岐阜県富加町の幽霊マンション騒動の同時期に、岐阜県八百津町の八百津中学校前付近にあるマンションから「お姫様の幽霊が出る」と話題になった話も当時聞いたことあった。

今は「今峰塚」と名付けられて供養されている。

この時に供養されたのは2001年(21世紀以降)に個人も住所も確定した珍しい幽霊。
1362年(南北朝時代)住所は岐阜県八百津町丸山の今峰城。
土岐一族の土岐頼遠の子の今峰又太郎氏光(今岑氏光)の妻、今峰夫人。
今ある今峰塚の隣の木の横で自害したようだ。


土岐今峰氏の歴史


土岐今峰氏は南北朝時代の最強の武将の一角・土岐頼遠の息子でありながら全く歴史に出てこない。何があったのか。

岐阜県八百津町丸山に今峰城跡がある。

鎌倉時代の城塞で、山田大隅守重久の築城。後藤氏を経てのち土岐氏一族の今峰又太郎氏光の居城となる。丸山城とも。

今峰城址(欠損により一部解読不可)
ここに位置した丸山城を、俗に今峰城とも「丸山より木曽川がり角のにと云う人の あり、どの地」と記されると「丸山にあり、西木曽川曲がり角の所にい今峰という人の・・
今峰氏は土岐の土岐頼遠二子今峰又太郎氏光とるある。城郭史によると、吉朝時代の主なるには、 等の名があるが、現存する犬山城のお時城ではなく、当時としてはのではなく、 は巻物館の美術を選び、それに 別些にととした域て、
今西に木曽川の大河を控え、北は油皆洞沢、東に安液試峰多くの谷川あり、具山岳をもって自然に囲まれ、頂上はよくて適した城。

城主の変遷(欠損により一部解読不可)
丸山城は古く「塩見関係一郷系図録」によると、山四大陳守貴久の 築による居城で、永久三年(1221年)鳥羽院武家進行之時宮方へ味方し、北条泰時と戦死す。そのこの重成は父と共に家方へ味方し、父討伐応援同居す。祖父により之武功により中宮怜に任赴され丸山代主となる。
その後三年(1231年)後藤佐渡前流司の 丸山城主となり寛元元年(1242年)卒す。後に今峰氏の居城となる。
八百津地区地区お越し実行委員会

(引用)
岐阜県八百津町の城跡へ
https://blog.goo.ne.jp/ogisan-xxx/e/89ec8d779d03c4af95313f54e47db30b

今峰城は1221年にはあり、1242年に土岐一族・今峰氏の居城となったようだ。

1361年に城主の土岐一族・土岐頼遠の次男(長男?)の今峰又太郎(今岑氏光)が亡くなり(?)、翌年の1362年に妻が亡くなっている。

今峰又太郎氏光(土岐 今岑氏光)の父である土岐頼遠は南北朝時代の代表的な婆娑羅大名で、東海三県を支配して「土岐氏が絶えれば足利氏も絶える」と鎌倉の足利氏を超えるほどの力を持っていた。

特に土岐頼遠は北朝の初代の光厳天皇に対して「院(いん)と言うか。犬(いぬ)というか。犬ならば射ておけ」と酔った勢いで弓矢を放った。
元々土岐氏は鎌倉の北条氏とも婚姻関係が深かったので、夢窓疎石(夢窓国師)のコネも使って助命をしたが、土岐頼遠は斬首された。

土岐頼遠に代表される婆娑羅大名は朝廷など旧権威を軽んじる風潮があり、足利氏も土岐頼遠のその軍才を頼りにしていたが、尊氏の弟・足利直義は激怒した。
光厳天皇は兄・尊氏の征夷大将軍を認めてくれた人で、足利氏の鎌倉幕府にとっても恩恵の多い人物だったからである。

不敬なことをした土岐頼遠が斬首され、土岐氏の家督は甥の土岐頼康に継承された。土岐頼康は北朝側についた。

土岐頼康は観応の擾乱(1350年、将軍・足利尊氏の弟で幕府の実権を握る足利直義の派閥と、幕府執事・高師直、将軍・尊氏の派閥が争い、最終的に師直も直義も死亡したことから、生き残った尊氏が擾乱に勝利)でも北朝の足利尊氏を支持している。

また土岐頼康は「桔梗一揆」と土岐氏をグループ化して「南朝に味方する同じ土岐氏も反乱として征伐」している。

なぜ土岐今峰氏は自害したのか?


土岐頼遠→(本来は味方サイドであるはずの)北朝の光厳天皇に対して弓矢を放つ→斬首

土岐氏の家督は息子ではなく甥の土岐頼康に継承(北朝)

土岐頼遠の息子である今峰又太郎氏光(土岐 今岑氏光)は南朝にされて征伐される

おそらくこの流れがあったのだろうと推察される。

ここで土岐 今峰氏光の歌を見てみよう。

●今峰又太郎(土岐氏光)之歌 峰又太郎氏光(今岑氏光)
「連なりし 枝の木の 葉の散りしけに さそう嵐の 音さえぞ  憂き」
康安元年(1361年)10月21日

●今峰婦人辞世之歌 峰又太郎氏光(今岑氏光)の妻
「牧の戸を 細目にあけて 望むれば 千尋出する 月ぞ 恋しき」
貞治元年(1362年)9月20日

(引用)
美濃 今峰城 🏯蘇水峡から見上げる城
http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-237.html

いずれも1358年に足利尊氏が死亡した後に書いている。天皇や上皇からの命令で書かせられた新千載和歌集の時期の頃。
特に北朝の武士は武家歌人としての教養も求められ、逆に南朝は冷遇された。
歌が残っているということは土岐頼遠の系譜で元々は北朝の武家歌人としての教養があったことがうかがえる。

●今峰又太郎(土岐氏光)之歌 峰又太郎氏光(今岑氏光)歌
「連なりし 枝の木の 葉の散りしけに さそう嵐の 音さえぞ  憂き」
そのまま読めば
「連なる木の枝の葉が散る 誘う嵐の音でさえつらい」
裏の意味としては
「連なる木の枝の葉」は自分の親の土岐頼遠の土岐一族。そして葉っぱとは自分も含めてその子孫のこと。
「我々土岐一族の子孫が死ぬことがつらい」という歌です。

●妻の歌
「牧の戸を 細目にあけて 望むれば 千尋出する 月ぞ 恋しき」
そのまま読めば
→「牧戸を少し開けて見れば、遠く(千尋)に出る月が恋しい」
裏の意味としては
→「牧野から細目村をみて子どもの生まれる月が恋しい」

この「妻の歌」がかなり考察できるので続けて深掘りします。


今峰又太郎(土岐氏光)の妻の歌の考察1~地名の列挙~

この妻が、かなり教養の深い人物であったことがうかがえるので深掘りします。

妻が自害された場所が「八百津町”牧野”」という地名の先にある野上。
「牧戸」も牧野の地名を指します。
次の「細目」も八百津町の旧名です。
八百津町は、赤江→細目村(江戸時代以前)→八百津町(明治以後)と改名していった歴史があります。
(※)
明らかに近所の地名を列挙しています。


明治二二年(一八八九)町村施行時に、それまでの細目村を故事の考証に基づき新地名に改称したもので、それ以前には八百津という地名は存在しない(『角川地名大辞典』岐阜県、『偽書の日本史』〈『歴史民俗学』一五〉))

今峰又太郎(土岐氏光)の妻の歌の考察2~千尋の意味~

次の「千尋(ちひろ)」ですが「遠く」の意味の他に、過去に「伊勢物語」では「千尋」は「子の繁栄」の意味で使われており、反対する勢力による返し歌でも「千尋」が使われていることがあります。

貞治元年(1362年)時点で「千尋」が含まれている和歌は以下の通りです。

和歌データベース(https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/menu.html)というサイトで検索できました。

伊勢の海の ちひろのはまに ひろふとも 今は何てふ かひかあるへき (後撰集927 敦忠)
よろつ世を かそへむ物は きのくにの ちひろのはまの まさこなりけり (拾遺集1162 元輔)
ちかひをは ちひろのうみに たとふなり 露もたのまは かすにいりなん (千載集1216 崇徳院)
わたつうみの ちひろのそこも かきりあれは ふかきこころを なににたとへむ (続後撰集695 読人不知)
きみかよの かすにくらへは なにならし ちひろのはまの まさこなりとも (続後撰集1352 公実)
ふかけれと ちひろのうみは ほとしりぬ ひとのおもひは さをもおよはす (続古今集1849 忠峯)
やまひめの てたまもゆらに おりはへて ちひろにさらす ぬのひきのたき (続千載集1635 公経)
わたつうみの ちひろのかみに たむけする ぬさのおひかせ やますふかなむ (新千載集762 貫之)

わかかとに ちひろあるかけを うゑつれは なつふゆたれか かくれさるへき (伊勢物語)

はかりなき ちひろのそこの みるふさの おひゆくすゑは われのみそみむ (源氏物語)
ちひろとも いかてかしらむ さためなく みちひるしほの のとけからぬに (源氏物語)
くものうへに おもひのほれる こころには ちひろのそこも はるかにそみる (源氏物語)

「千尋」という単語が入っている和歌
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11266898646

特に880年頃に作られたとされる伊勢物語の詠み方が重なる部分が多いので引用します。

わかかとに ちひろあるかけを うゑつれは なつふゆたれか かくれさるへき (伊勢物語)

我が家の門に大きな陰をつくる大木を植えたので夏の日差しが強い時、冬の風がつよく大雪の時、一門のこの木陰に隠れないだろうか。

鑑賞七十九 千尋ある影を

 一族の中に、親王が生まれた。御産屋の祝い(出生後、三日目、五日目、七日目、九日目に行う祝で、夕刻から行われる。)で人々が歌を詠んだ。この皇子は貞数の親王である。中将の兄である中納言行平の娘が生んだのだが、当時の人々は中将の子だと噂した。中将とは在原業平のことを指す。 歌は親王の祖父方の親族が詠んだ。
 歌には一族の中に親王が生まれ、どんな時でも一族の者は庇護を受けるだろうと意味で詠まれている。一族とは在原氏の一族のことで、平安時代では天皇の影響力は強く、皇子が誕生による一族の期待は大きかったのだろう。 業平が好色多情と評判の人で皇子の誕生をわが事のように喜んだので、実は業平の子だという噂を立てられたのだろうか。

千尋ある影は「ひろ」人が手をひろげた長さで約一間(1.8メートル)で広い大きな影という意味。

https://wakastream.jp/article/10000235qzbF

「千尋」の「ひろ」とは両手を広げたサイズ。千とはそれが千人分ほどたくさん。という意味です。
伊勢物語では親王が生まれた時に「千尋ある影」、つまり「大きすぎて影ができる」と子の繁栄を願って詠まれています。


貞数親王の境遇と重ね合わせているのでは

この伊勢物語で「千尋」と詠まれた親王とは「清和天皇の息子(第8皇子)の貞数親王(貞和親王)」のことです。
清和天皇は土岐一族の祖であります。

しかし当時、貞数親王に関しては誕生時、父親は清和天皇ではなく母の文子の「叔父の在原業平」だと人々が噂した話もありました。
ここで貞純親王系は途絶えています。

土岐氏は貞数親王ではなく「第6皇子の貞純親王(さだずみしんのう)-源経基(みなもとのつねもと)=清和源氏系」から派生しています。
貞純親王の「貞」から取って初代は「土岐頼貞」という人物がいます。
祖父の土岐頼貞の「頼」は「源頼朝」に代表される北条家の「頼」から取っています。

伊勢物語の引用だとすると、自身の境遇を「貞数親王」になぞったと考えると、
「叔父の在原業平」と「叔父の土岐頼康」の位置関係が重なる気がします。

子どもが殺されたのでは

土岐頼遠(父)南朝
土岐今峰光(息子)南朝
↑討伐
土岐頼康(甥)北朝

この構図で登場人物たちの当時の年齢が正確な資料がないので分かりませんが、分かっている死亡年月から逆算すると

土岐頼遠→1342年死亡 南朝(北朝の天皇に逆らったので。南朝と言うことにされる。)

頼遠の息子の土岐今峰光氏→同じく南朝と言われて1361年死亡(父の約20年後死亡(最低20歳前後+αの年齢))

土岐の家督を継いだ甥の土岐頼康(1318年~1388年 北朝)は
土岐頼遠の死亡時は24歳、息子の土岐今峰光氏の死亡時は43歳ということになります。


土岐頼遠は処刑されてしまう。
土岐頼遠(叔父)から飛んで、甥の土岐頼康へと家督が移る

貞数親王の父は実は叔父の在原業平ではないかと噂。
家督を継いだ土岐頼康の父は実は叔父の土岐頼遠ではないか。

土岐頼貞の息子の土岐頼遠、その息子の今峰が順当。

要するに家系図は残っていませんが、土岐今峰光氏の妻には何人か子どもがいた、あるいは身ごもっていた可能性があり、それも先に殺されてしまった可能性が高いです。

「本来なら今峰氏が土岐一族の直系で継承する予定だったのに、子孫を殺されてくやしい。」という気持ちが、
二人の句の中に
「連なる木の枝の葉が散りし」
「千尋の出る月」
として表現されています。

そんな未練が多い歌なのです。