行き詰まったらすぐ別のことをした方が良いワケ

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何をやるにしても行き詰まったら疲れてしまう。
私も少なからず完璧主義(強迫性障害)の傾向があり、こだわりまで考えるとアスペルガーではないかとも思うこともあります。
実際に友人にも強迫性障害やアスペルガーの人が多く、どうやって乗り切っているのかの質問をよく受けます。

個人的には軽度でも重度でもアスペルガーの方の方が、入力すればその方向へ没頭できるという点で、論理を学ぶ(数学のように筋道を立てて解を導き出すこと)には優れていると思います。

ただ論理をディペードとして言葉で表現しようと思うと、難しいことが多いのではないかと思います。

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また、うつ病の傾向がある場合も含めると、どうしても「頭の中の箱」にうまく収まっていかずに、頭痛がしてしまうこともあるのではないでしょうか。

そういう時は、あまり無理をせず、気持ちを切り替えることも大切かと思います。

「ツァイガルニク効果」と言って、1つのことを追求するよりも、行き詰まったらすぐ別のことをした方が、それを成し遂げようとする動機付けが強く維持されるということがあります。

探求しているうちに強迫観念が出てしまう。

そこで自分の非合理性を責めることもあります。
しかし合理性が悪いと考えることで完璧主義で強迫的になってしまうと、どうしても情動的にもなるので合理性からも遠ざかってしまう。

情動を抑圧しようとすると、それは合理的ではないと疑念が生まれ、またそれを抑圧して…という感じで、抑圧をループさせてるだけで、強迫的にゴールが見えないような閉塞感、解決しないといけないような焦燥感が生まれる、そんな悪い循環を繰り返してしまう。

とても窮屈な思いをする。

そんな時はまず、過去の偉人の哲学者がそうであったように、このようなことを考えていて冷や汗やストレスを感じるのは「当たり前」だと思ってください。

そしてその時に、それを克服しようとか、解決しようとは思わなくていいと思います。

考えこんだら「保留」という感じで、頭の中で別の箱に一度入れておくイメージをするといいと思います。

基本的に強迫や焦燥は、情動的なところから来るので、時間を置けば自然と落ち着いて見通せるようになると感じます。

一つ、「合理的」(ratio)というのは「理性」(reason)と語源が同じです。

「合理・理性」とは、元々、アリストテレスの時代に
「人は神様じゃないんだから、物事を善か悪か、白か黒かなんて、きっぱり決められない!」
ということで、「天秤(てんびん)」という「秤(はかり)」に、2つのものを乗せて、比較しました。

例えば、殺す人・殺される人にも双方に言い分や理由があるけども、どちらが悪人・罪人かなんて、はっきり決められない、秤(はかり)で測って決めよう、これが裁判(裁量で判断する)です。

自動車同士で軽い接触の事故をして、8:2とかの過失割合でお金を払ったりします。

裁判で懲役〇〇年、執行猶予〇〇年、とか受刑者によって違うのもそうです。悪いことした=全部悪、で、みんな死刑にされたら大変ですからね。

このように、合理・理性とは、実は突き詰めても、数学のように「答えは必ず一つ」にはならないのです。
近代的な言い方をすると、「アロウの不可能性定理」といいます。

これに対して、近代以前、中世の頃(資本主義が出る前、近代科学以前)までは、欧米でも神学的、つまり神様のように普遍的=数学的(答えは必ず一つ出る)という考え方が圧倒的でした。

今でも濃ゆく唯一神を信仰するユダヤ・キリスト・イスラム教徒は、これを信条として行動しています。

つまり

【中世以前】

「論理(数学)で答えは必ず1つの時代(神様は絶対に普遍の1つの解を出す)」



【近代=プロテスタンティズム・資本主義以降~】

「論理(数学)で答えは必ず1つ vs 答えは1つじゃなくて論理の上で割合(%)で物事を考えよう(理性・合理)=近代科学=自然科学・社会科学=資本主義」

という対立構造になりました。

宗教的に言うと

「キリスト教カトリック vs キリスト教プロテスタント・ユダヤ教」

です。

私がなぜ「合理的」というワードをよく言うかと言うと、論理を組み立てても「答えが一つなわけがない」からです。
現代に生きる人なら、2つのものを天秤(てんびん)に乗せて、割合(%)で比較して、都合の良いほうを「選択・決定」すべきだと思うからです。それが論理を追求した上での、合理・理性です。

中世の「答え一つ」の考えでは数学(論理)を組み立てて、最終的に「答え一つ(真理)」を証明しますが、
近代以降では、もちろん根拠として数学(倫理)を組み立てても、最終的に「答えは仮説」とします。
他の答えになる可能性も秘めているからです。(小室直樹氏の宗教原論で言うと「特殊命題」のことです。)

この中世派 vs 近代以降派の対立は、長らく(今でも)続いて来ましたが、実は数学(論理=神学)分野で、ゲーデル・チャイティンという人が1920年くらいに「不完全性定理」で「答えが一つなわけがない」と証明(語弊があるかもしれませんが)してしまいました。
今まで数学(論理)を突き詰めれば、「答えが一つ(神様)」と考えていた中世の人たちはここで途絶えました。
近代科学のように、ある程度までは論理(数学)で語れても、最後は「分からない、決められない」のです。

更にハイゼンベルクの不確定性定理で、今では量子力学の基礎理論になっています。

よって、追求したら強迫的になってしまうというのは、論理の方向から考えれば自然かもしれません。
そしてどうしても「答えを出そう」とする強迫観念がストレスを生んでいると思います。

そういう時は「特殊命題」。「完全なものなどない」ということで、現代人に立ち戻って、しばらく休息を取ることをオススメします。

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記事を書いた人



時田憲一(ときたけんいち)こと時ニール(tokeyneale)です(・ω・)ノ
とある国立大学の教育学部/心理発達科学。心理学者・認定カウンセラー。動機付け理論・自己愛・対人関係が主な研究領域。数理統計データサイエンティスト。
ねこ好き・本好き・禅好き・PC好き。

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