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仏教では、魂も、死後の世界も、霊も、奇蹟も全て否定します。
だから唯物論(ゆいぶつろん)も否定します。
よって、輪廻転生も否定・・となると、仏教の根本思想である『因果律』も否定してしまうことになるのでそれはできないのです。
しかし「輪廻さえも否定してでは残るのは何か?」という疑問が出ました。

それを解決したのがナーガールジュナ(龍樹)の『空(くう)の思想』、つまり唯識でした。

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無意識を究極的に突き詰めるとつきあたる我執(がしゅう:自分にしがみつくこと)・・・

この我執の本体を、唯識では、末那識(まなしき)と呼びます。

そして、末那識(まなしき)のさらに奥深くに、阿頼耶識(あらやしき)という識があるとします。

阿頼耶識(あらやしき)は、生命の中枢であり「我」よりもさらにその根底にある生命そのものに執着します。

阿頼耶識(あらやしき)の発見こそ、唯識論最大の発見です。

人間が行為(現行:げんぎょう)すれば、その痕跡が残ります。
これを種子(しゅうじ)と言います。
種子は阿頼耶識(あらやしき)の中に残って蓄積されます。

これはすべての経験は無意識の中に残るというフロイトの考え方と同様で、「過去の経験は、意識の中に何も残らなくても、無意識の記憶となって、すべて蓄積されている」というものです。

この蓄積を「薫習(くんじゅう)」といいます。
薫習(くんじゅう)とは、香りが衣服に付くことをいい、過去の経験が、阿頼耶識(あらやしき)に付着、蓄積されることをいいます。

これを「現行(げんぎょう)の種子は、阿頼耶識に薫習される」といいます。

例えば、下の図が非常に分かりやすいです。
よい行為(現行)をすれば、よい種子が薫習される。(図①)

種子は、また現行を生む。例えば、よい種子からは、よい行為(現行)が生ずる。(図②)

この現行と種子とが、かわるがわる原因となり結果となります。(図③)

その生み生まれる連鎖過程をまとめて画いたものが、図④です。

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「宗教原論」小室直樹 著 徳間書店 2000年 より

この連鎖過程が、循環過程であることを重視して図示すれば、図⑤となります。

2つ以上の種子が薫習された場合、そこから現行が生じる過程は、図⑥です。
ナーガールジュナの縁起説をとれば、種子同士は相互連関過程なのです。

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仏教学者はやたら複雑な話から始めたがりますが、科学の議論のように、このような再単純模型(モデル)から話を始めて、次第に複雑な模型へと勧めていけば、難解で有名な唯識論も短時間で理解することが出来ます。

現行(げんぎょう)は行為のことを言いますが、それは外面的行動だけではなく、その行動を内面から支える動機やその結果生じた心の状態をも含みます。

このような心もまた薫習されて、阿頼耶識の中の無意識の中の記憶(複合体:コンプレックス)として残るのです。

種子は、行動を生む力も持つ。種子が原因となって、結果としての行為(現行)となって現れます。どんなにこみいった唯識論も、この種子と現行との再単純模型の複雑化として、いくらかの組み合わせとして表されます。

ここまで種子、現行、薫習、阿頼耶識という実体が存在するような説明をしてきたが、これは本当はいけません。

実在するものは何もなく、全ては空(くう)である。
刹那(一瞬)に生滅していく無常なのです。

そもそも唯識は、自然現象や社会現象がみな下界に実在していると捉えるのは大きな誤りであるという思想です。

人間が実在していると思っているものは、みな妄想であり、人間の識にすぎないのです。

自らの識で自覚したという理由で実体を捉えているところに錯覚があるのです。

分子生物学によると、人間の身体は6ヶ月経つと完全に細胞が入れ替わってしまいます。
爪や手足や頭髪にしても細胞レベル、分子レベルでいえば生死を経て入れ替わっているのです。

まさに一刹那に存在し、一刹那に消えるという話です。

この事実は、唯識の説く「人空(じんくう)」と符合します。

自己の身体の内に実体としての自我(アートマン)は存在しない、と解するこの考え方は、人間の心身が空(くう)であることを説いています。

その説明は、法華経にもあるように例え話が多用されることにあります。

一刹那に現れ、一刹那に消えることを理解するためには、激流の例えが適しています。

激流に手を入れると、その手には激しい水の流れを感じる。
しかし今手に触れている水と、一刹那後に触れた水は同じではない。
それを持続して水に触れていると自覚するのは、同じ水があるがごとく思う錯覚にすぎない。
仮に同じ水があるとしているだけなのだ。

存在とはそういうもので、実体があるのではないと仏教は説いているのです。

阿頼耶識(あらやしき)は生命に執ずる(すがりつく)心です。

しかし刹那に生じ、刹那に滅する激流のように無常であれば、どこの何にすがりつくのか?
すがりつきたくてもすがりつきようがないではないか?

そこで阿頼耶識の一部分を、末那識(まなしき)として、そこには実在しない「我」が実在すると錯覚して、あたかもこれにしがみつくのです。

現行(げんぎょう)から薫習され阿頼耶識の中に蓄積されている種子は、生まれてからの種子すべてです。

ここまではフロイトと同じですが、ここから先が違います。
唯識論では、生まれる前、永遠の昔からの薫習による種子がすべて阿頼耶識に蓄積されていると考えます。

すなわち、前世の種子も、前々世の種子も、その前の種子もすべて蓄積されているのです。

遺伝子情報もまた種子の一種と唯識では捉えます。阿頼耶識は膨大なデータバンクのようなものです。
生まれる前、遙か昔のいわば天地開闢(かいびゃく)の頃からの原意識の記憶があります。

【その種子の入り方、出方こそが輪廻転生するのです。】

【これも一種の例えですが、意志以前の誰も自覚しない原意識のようなものが、転生するのです。】

経験もなにもないのに、初めから、あるものごとに長けている人がいます。

特に世界市場の軍事の天才というのは、経験もないのに、学習もしないのに戦争のやり方をすでに知っていたりします。

ナポレオンについては、メレジコフスキー(1866~1942)という詩人が研究した結果、経験・学習なしに彼は戦争のやり方を知っていたとしか理解できない、と結論付けています。

他には西洋のアレキサンダー大王、中国の霍去病(かくきよへい)、日本の源義経と、初戦より連戦連勝の将軍などは戦争に勝利する種子がすでに阿頼耶識に薫習されていたと考えるのが妥当かも知れません。

この阿頼耶識(あらやしき)の説明で、魂がなくとも、因果律に基づいて輪廻転生できることが明確に分かるのです。